最近おじさんに対する辛辣な評価を目にすることが増えてきた。
最近話題になったNewsPicksの「さよなら、おっさん。」の広告コピーは賛否両論あったが、多くの人に注目された点では、広告としては大成功だろう。
私自身も年次的にそういうおじさんが多くなる管理職と仕事上で対峙することが多くなり、ミドルとして色々思うことが増えてきた。
しばしば気になるのが、「なぜ管理をしない管理職おじさんが多いのだろうか」ということだ。勿論皆が全てではないのだが、結構な割合で「管理はせず、上から言われたことの調整」をしているだけだ。
私自身が日本の大企業に勤めて見てきた風景から、そうした管理をしない調整型管理職おじさんが沢山いる理由を読み取ってみた。
なお、これは普遍的な事例ではなく、あくまでも私の実体験から判断されたことであるという点に留意したい。
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年功序列で年を取ればみんな勝手に管理職になる
特に私の会社は典型的な日本企業であり、雇用体系は基本的に年功序列システムになっており、年次を重ねれば、自動的に役職が付く。
年功序列に基づいた人事制度の下、大きな失敗をしない限りは概ね横ばいで昇格し、差が開きにくい。そのため、ラベル(肩書)を気にする人にとっては、昇進のために頑張ってマネジメント能力を身に着けるモチベーションが湧かない。
勿論、いわゆる部下のいるライン課長と部下のいない実質的には実働部隊にすぎない担当課長では、求められる能力は異なり、一般的にライン課長の方が責任が重いはずだ。
しかし、こうした違いがあるにも関わらず、そのインセンティブである給料にはせいぜい100万円から200万円の違いしか見られず、金銭面を重視する人にとっても、ラインを持つ管理職に求められるマネジメント能力を自発的に身に着けるコスパは、正直言って悪い。
上司や部下の板挟みで仮に手取りベースで10万円ほどしか変わらないとなると、自由気ままに担当課長でいいやと思う人がいても全然不思議ではない。
だから、管理職になっても管理者としての仕事に対する意識やスキルが低いんじゃないだろうか。
管理スキルは特別なものではないという意識
また、年功序列的に役職が上がるということは、その人の能力の有無にかかわらず、年次が昇進の第一ファクターになる。どれほど優秀な人でも、30台半ばまで管理職になれない。
加えて、特にコーポレート部門等、営業職と違い数字で見えない仕事をしている人たちは、評価に対して明確な差が付きづらい状況だ。
このような状況下では、年次を重ねていることに加え、労働時間という自己犠牲度合や資格・学歴等、目に見える項目でスクリーニングを行われがちだ。
また、育成においては、将来的に管理職の能力を有するようを育成を行っている訳ではなく、自然と年齢を重ねると管理スキルが身につくと思われている節がある。
そのため、今までリーダーシップを取って仕事をするような業務を任された訳でもなく、本人自身にも管理職としての志望がないまま一様に管理職登用が行われているが、個人的にとても違和感を覚えざるをえない。
スポーツの世界ではよく言われているが、名選手が名監督になるとは限らない。
名管理職になるには、それなりの育成やスキルが必要になり、管理職登用に向けては、本当は本人の志望や素養を判断した上で、別途管理者としての育成や業務の割り当てを行うことが本来的には必要だろう。
しかし、現実の管理職への昇格・昇進に関しては、年次等の誰にでも分かりやすい目に見える評価軸等が重視されており、リーダーシップや管理能力の有無を登用時の判断軸として用いられる度合は非常に低い。
それがために、管理に長けた管理職が少ないのはないかと思う。
年次を重ねると管理職しか道がないシングルキャリア
例え名将にはなれそうになくても、名選手として専門性を高めるキャリアが存在すれば、無理に管理職に登用する必要はないはずだ。
しかし、私の身近にある日本企業では、名選手として功を上げたら、最終的に管理職に登用されることによって報いられる。
個々人には向き不向きがあるし、給与水準を上げるために内心嫌々管理職になっているものも多いのではないだろうか。
マネジメントというどちらかというと汎用的な能力ではなく、例えばITや語学、数学等の能力を高めたい人も多いだろう。実際転職市場などでも重宝されるのは後者だ。
しかし、日本の大企業等においては、意味の薄い定期的な転勤・担当替えがあり、給与を上げるキャリアが管理職しかないことが多い。
このような制度が前提となっている以上、スキルがなくても管理職にならざるを得ず、管理職本人もその下にいる部下もお互いに嬉しくない形になっている。
能動さを生み出さないプロセス至上主義
管理職としての能力や責務に対する意識が薄弱なまま管理職になった人のラインの従業員は悲惨だ。
例えば、管理=労務管理とはき違えて、単純に早く声掛けをしたり、休みを強制的に取らせる勤務状況の適正化をマネジメントと認識している人も多い。上から言われているから。
しかし、そういった勤務管理はあくまで手段であり、本来の目的は勤務管理適正の先にある健全な勤務状態下での付加価値の向上やアウトプットの創出だ。
この先の視点まで持っている管理職が案外少ないと感じる。
一方で、適正化をせぬまま長時間労働を行う従業員を未だに勤勉・まじめ・努力家等と認識する管理職も多く、指導・育成をせずに敢えてほったらかしにする管理職もやたらいる。
本来的には、その長時間労働の先のアウトプットが要した労力に見合ったものか評価すべきだ。
また、管理職として会議に長時間出たりして仕事したと思っている人も多い。そうした会議が例えば何か方針を決めたり、アイデアを出したりする場なら良い。
しかし、多くの場合において、集まる必要が全くない連絡会議に長時間出て、何の結論も出ないまま仕事した感じになっているのは、横で見ててイライラして仕方がない。
何が言いたいのかというと、これらの事例に挙げられるような結果にこだわらない、なんかやってれば仕事した気になるプロセス至上主義の蔓延が管理職の能動的な管理を促さないのではないかと思う。
結果的に、降ってきたものを受け流す”調整ばっかりするおじさん”を生んでいる。
日本の文化がこうしたおじさんは生み出すのだろうか?
日本文化の良さは、単一民族で同質的な考えや経験を持つ人達が多く、教育水準も高いことだ。何をするにもある程度あうんの呼吸で回り、水準が保たれていることは日本の凄いことだ。
海外旅行で小売り店やレストランに入ると、日本の一般的な水準の高さがよくわかる。
一方で、こうした同質的な文化が、人と違うことすることを妨げ、何をするにも現状を維持するような保守的思考がベースにある気がする。特に古い日本企業ほど、そうじゃないかと思う。
上で挙げたような管理職の人たちも、若い頃は現状のような仕事している風おじさんではなかったと思う。何か問題があれば改善をしたり、やめる決断もしてきた。
結果が出なくても評価されるプロセス市場主義も頭では良くないとわかっている。
ただ、上に行くほど保守的な思考を持つ高齢年次の役職者と近くなる中、何をやるにもすんなり決まらなくなり、生産性が低くなる。その状態において最適化された結果が、能動さを失い受け流しばかりする管理をしない管理職じゃないかと思う。
正直自分の会社の上を見て、経営層に何か言われたら電話や相談ばかり行い、ITや語学等の専門性に限らず業務知識までがなく、暇になると管理職同士でおしゃべりばかりしている管理をしない管理職おじさんを見ていると、将来展望に対してやるせない気持ちが湧いてくる。
どこの会社もこんなものなのだろうか。
ふと自分の会社の管理しない管理職おじさんを見てそう思った。